2009年06月14日

バター(英語:butter)とは乳を原料とした

バター(英語:butter)とは、乳を原料とした食用油脂で乳製品のひとつである。日本語での漢字表記は牛酪と表記される。

牛乳を原料とするのが一般的。乳中の脂肪分を凝固させて作り、常温ではわずかに黄色味をおびた白色の固体である。100gのバターを作るために原料乳は約4.8リットル必要とされる。ビタミンAをはじめ各種ビタミンや栄養素を豊富に含んでいる。
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日本では近年、低脂肪乳が好まれるようになり、副産物の乳脂肪は生産過剰気味と言われていたが、2007年末から乳牛の生産調整などの悪条件が重なり、バター不足が発生している。
バターが日本に広まったのは、明治維新の後からである。

世界では、聖書やマハーバーラタ(乳脂として)にも記述が存在するのでその時代には存在していたとされるが、起源は不明。ギリシャ時代は、髪や体に塗る薬、化粧品、潤滑油として、ごく一部で使われていた。村上信夫によれば、化粧品だったバターを世界で初めて食したのはユリウス・カエサルであるという(「おそうざいフランス料理」でのエッセイより)。

原料乳を乳酸発酵させてから作る発酵バターと、そのまま作る無発酵バターがあり、それらに食塩を添加した有塩バターと添加しない食塩不使用バターの4種類に分かれる。 食塩不使用バターは、かつて無塩バターと称していたが、無塩で製造しても生乳に由来する塩分が微量含まれることから、厚生労働省の栄養表示基準により食品の正規表示が求められ、無塩バターの表示が出来なくなった。

日本で市販されているバターは「無発酵、有塩」がほとんどである。

性質 [編集]
冷蔵庫等で冷やすと、バターナイフで切るのに多少力が要るほど固くなる。
室温(20℃程度)にすると、マヨネーズ程度の柔らかさになる。パンに塗ったり、洋菓子を作る際にはこの状態がよく使われる。
30℃前後で融解する。液体になった状態を「溶かしバター」と言う。
溶かしバターを凝固しない温度で放置すると、乳脂肪以外のタンパク質など(乳漿)が底に沈む。上澄みは透き通った黄色っぽい色をしており、これを「澄ましバター」と言う。通常のバターでは強すぎる繊細な風味が必要な場合に使われる。

2009年05月29日

将軍職を嫡男家光に譲る

元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。

関ヶ原の戦いが初陣であった。この時の秀忠隊は信濃の外様大名と、上杉・中山道に対処する部隊としての慣例により隣接地に封地を持つ譜代大名で構成していた[2]。しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は康政・忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるという事はできなかった。
家康は秀忠が間に合わないと察するや、本多忠勝と井伊直政になお秀忠を待つか、開戦すべきかを協議した。忠勝は前者を主張し、直政は後者を主張した。家康は直政の意見を容れたため、この時点で秀忠は関ヶ原への遅参が確定した。
秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている[誰が?]。
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慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参」(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)。
これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている[誰が?]。ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。
大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が勤めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王口で先陣を勤めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。


2009年04月25日

ヴォロガセス4世

ヴォロガセス4世(Vologases IV、? - 191年、在位:147年 - 191年)は、アルサケス朝パルティアの王。長期に渡って東西に分裂していたパルティアにおいて、久々に登場した単独王となった。だが、ローマ帝国との戦いでは劣勢を強いられ、国境を後退させた。

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来歴
パルティアの西部を支配していた王ミトラダテス4世の息子であった。(ヴォロガセス3世の息子という説もある。)。既に140年頃以降、ヴォロガセス3世がパルティアの大半を支配下に収めていたが、ヴォロガセス4世はヴォロガセス3世の死後、その権力基盤を取得することに成功した。また、トラヤヌス帝の侵攻以来、影響力を喪失していたカラケネ王国を再びパルティアの傘下に収めている。

対ローマ戦争
161年にアルサケス朝のアルメニア王ティグラネス7世が死去すると、ローマは新たなアルメニア王としてソハエムスを擁立した。これによって再びローマとの関係は緊迫したものとなり、ヴォロガセス4世は軍を率いてアルメニアとシリアを攻撃し、初戦でローマ軍を破ってシリアを占領するとともにアルメニア王ソハエムスを追放してアウレリアス・パコルスをアルメニア王とした。

162年、ローマ皇帝ルキウス・ウェルス(マルクス・アウレリウス・アントニヌスとの共同皇帝)の指揮の下でローマ軍は反撃に移り、163年にはアルメニアを占領した。アウレリアス・パコルスは廃位され再びソハエムスがアルメニア王に即位した。ローマ軍は更にバビロニア方面への侵攻を行い、165年には首都クテシフォンがローマ軍によって占領された。

だがその時ローマ軍の内部で天然痘が発生し、撤退に追い込まれた。このためヴォロガセス4世は失地を回復したが、166年にはメディア近辺まで再びローマ軍が侵攻し、ヴォロガセス4世はメソポタミア西部を割譲して講和することになった。

ローマでは180年に皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが死去し、後世無能な皇帝として記憶されることになるコンモドゥスが新たな皇帝になった。ヴォロガセス4世は同年中に再び戦端を開き、アルメニアを占領してソハエムスを追放、自らアルメニア王となった。

王位継承
単独王となったヴォロガセス4世も、その死に際してパルティアで頻発していた王位継承争いと無縁でいることはできなかった。190年にはメディア地方でオスロエス2世が王位を主張して独自にコインを発行しはじめた。一方でバビロニアではヴォロガセス5世が191年のヴォロガセス4世の死と前後して王位を宣言した。

結局ヴォロガセス5世が王位を獲得することになる。


2009年04月09日

ミュジーク・コンクレート

ミュジーク・コンクレートまたはミュージック・コンクレート(musique concrète)は、録音技術を使った電子音楽の一種。具体音楽とも訳される。

楽音ではない、人の声、動物の声、鉄道の音、自然界の音、都市の騒音などを電気的・機械的に変質させ、組み合わせてできあがった音楽作品のジャンル名である。

ミュジーク・コンクレートには、当然ながら譜面は存在せず、録音されたものそのものが作品となる。(作曲者の個人的な備忘録やアイデアの下書きとしてグラフなどを紙面に書くこともあるが、それについてはあくまでスケッチの段階であり、それ自体を作品とはみなさないのが普通である。また記譜法は確定されておらず、完全に個々の作曲家独自のものである。)初期においては円盤(レコード盤)が用いられたが、テープレコーダーの発達によって、後にはテープを用いるのが当然となった。

ミュジーク・コンクレートの創始者は、フランスの電気技師ピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer)である。彼は1948年頃からミュジーク・コンクレートの実験を始め、1949年頃からは作曲家ピエール・アンリ (Pierre Henri)とともに種々の実験的作品を作るようになる。

シェフェールらのミュジーク・コンクレート作品は、当初、ラジオを通じて発表され、初めて聴衆を前に公開されたのは、1952年のことという。

やがて多くの作曲家たちがミュジーク・コンクレート作品を手がけるようになった。エドガー・ヴァレーズ、リュック・フェラーリ、ヤニス・クセナキスなどが代表的である。オリヴィエ・メシアンやピエール・ブーレーズなどもミュジーク・コンクレート作品を手がけたが、両者とも後にそれらの作品を撤回している。

シェフェールはラジオフランス内の映像研究組織INA(Institut National d'Audiovisuel)の内部組織として、音楽研究グループGRM(Groupe Recherche Musicale)を作り(総称してINA-GRMとも呼ぶ)、これが現在まで続いているフランスを代表する電子音楽研究組織である。同じフランスでブーレーズが設立した後発のIRCAMがどちらかといえば演奏行為を主体とした生身の技術研究を中心に活動しているのに対し、INA-GRMはその発端の歴史が示すように、よりミュジーク・コンクレートに近い美学にのっとって活動している。両者は長いこと競合関係にあったが、2006年にIRCAM総裁が交替したことによりラジオフランスとの提携を打ち立てたことから、今後は両者の技術協力が進むものと期待される。

日本ではNHK電子音楽スタジオにおいて黛敏郎と諸井誠が、日本における初期のミュジーク・コンクレートの製作に関わったが、それと同時並行して在野では武満徹や湯浅譲二など実験工房の作曲家によって、ミュジーク・コンクレートの歴史の最初期から作曲が試みられていた(1951年-1955年)。特にオートスライドを使用した視覚的要素を含むマルチメディア作品が作られていたことは特筆に価する。

ミュジーク・コンクレートは基本的に、楽音ではない音のみで構成されたものである。時に楽器の音も用いられるが、それは楽音としてではなくひとつの騒音として用いられるのである。しかし、時に楽器演奏とミュジーク・コンクレートを混在させた作品も作られ、例として、カールハインツ・シュトックハウゼンの「少年の歌」が挙げられる。 1957年には長洲忠彦が杉並公会堂に於いてオーケストラ、合唱、ソプラノソロを録音したものに、ミュージック・コンクレートを融合させるという実験的な作品「不知火」(合唱、詩、ミュージックコンクレートによる幻想)を発表した。「不知火」は東芝によりレコード化されている。

現在は編集方法こそコンピュータが中心になったが、INA-GRMなどの電子音響研究施設や各国の公立ラジオ放送、主要な現代音楽祭などではなお多くの作曲家によりミュジーク・コンクレート的音響デザインのテープ音楽作品が多く作られ注目されている。例として電子音楽で権威を誇るコンクールのイタリア賞などが挙げられる。

また今ではコンピュータ・ミュージックの技術やソフトウェアの発展により、PRO-TOOLSなど一部のソフトウェアを用いれば、個人で簡単にミュジーク・コンクレートを作成できるようになった。またその画面表示のデザインによって、視覚的な記譜法もある程度確立されつつある。パリ音楽院では作曲科学生がミュジーク・コンクレートを作曲することが必修課題になっている。もはや具体音をデザインするだけでは作曲における問題提起とはならない時代に来ており、音楽大学やIRCAMなどの研究施設で学ぶ若い作曲家たちはミュジーク・コンクレートを単に作曲するだけでなく、それによって新たな展開を見出すことを迫られている。例えばミュジーク・コンクレートなどのコンピュータ音楽の実習をした後、器楽の作曲にそれらのアイデア(フィルトラージュなど)を生かす試みなどが行われている。

ミュジーク・コンクレートの影響・痕跡は今日の音楽のさまざまなところに発見できる。プログレッシブ・ロックの作品の中には、時おりミュジーク・コンクレートを部分的に取り入れたものがみられ、時により大衆的なロックにおいても、こうした手法が使われることがある。また、ブレイクビーツなどのサンプリングを取り入れた技法は、ミュジーク・コンクレートの子孫であるともいえるであろう。

なお、本来の英語は語順が逆で、concrete musicが正規。musique concrèteというフランス語を日本語に音写するならば、ミュジーク・コンクレートが妥当であると言える。

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2009年03月25日

大井川鐵道

大井川鐵道株式会社(おおいがわてつどう)は、静岡県に路線を有する名鉄グループの中小私鉄である。略称は大鐵(だいてつ)。

鉄道路線は大井川本線と、中部電力から運営受託している井川線(南アルプスあぷとライン)を有する。大井川本線は蒸気機関車 (SL) の動態保存、井川線は日本唯一のアプト式鉄道として知られる。

ローコスト運営の名鉄グループの中でも際立つ低コスト運営と、中部電力からの運営受託収益で、地方のローカル鉄道でありながら経営基盤を確立しているのは特筆に価する。

他に寸又峡線の路線バス事業を手がけている。

元々は大井川鉄道という会社名であったが、2000年10月1日に子会社の大鉄技術サービスを存続会社とする形で合併し、その翌日、大井川鐵道と商号を改称した。「鉄」を旧字体の「鐵」にしたのは、「鉄は『金』を『失』うと書き縁起が悪いから」だといわれている。なお、地元の静岡新聞など一部マスメディアは現在でも『大井川鉄道』表記を続けている。これはマスメディアなどの場合、野村證券など証券会社と同様に、「表記としては新字を使用する」という原則が日本新聞協会や共同通信社などにあり、それを踏襲しているため、「鐵道」ではなく「鉄道」という表記を用いている。

日本で初めて蒸気機関車の動態保存を始めた鉄道として名高く、現在でもほぼ毎日運転されている。また、蒸気機関車の保存運転を行っている縁から、1977年12月19日にスイスのブリエンツ・ロートホルン鉄道と姉妹鉄道提携を結んでいる。1996年8月10日に沿線の金谷町(現島田市)がブリエンツ村と姉妹都市提携を結んだのも、この縁によるものである。1986年1月25日には台湾の阿里山森林鉄道とも姉妹鉄道提携を結んでいる。

蒸気機関車牽引列車の運行に旧型客車を使用していることや沿線の風景から、戦前・戦時中に時代設定されているドラマや映画のロケーション撮影でよく使用される。ただしストーリー上の舞台は必ずしも静岡県内とは限らず、電化路線であることから時代・地域設定に関わらず架線が映ってしまう問題も生じている。

なお、井川線は当初から蒸気機関車はなかったが、イベント列車として井川線を走行したことはある。

運賃・時刻表は外部リンクにある公式サイトをアクセスのこと。

鉄道事業 [編集]

鉄道路線 [編集]
大井川本線と井川線は極端に建築限界が異なり、共通するのは軌間だけである。千頭駅を境に大井川本線と井川線の運行ダイヤは分断されている。各路線の運行形態などは以下の各項目を参照。

大井川本線 金谷駅 - 千頭駅 39.5km
井川線 千頭駅 - 井川駅 25.5km

ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

2009年03月09日

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニーかんげんがくだん、ドイツ語:Wiener Philharmoniker ヴィーナー・フィルハーモニカー)は、オーストリアの首都ウィーンにあるオーケストラ。世界でも最も有名なオーケストラの一つであり、その演奏技術は世界最高峰である。ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)を本拠地として活動している。2006年の世界のコンサート・オーケストラ・ランク表ではトップに位置している[1]。ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも呼ばれる
プロフ幸 かぶらな とらが ラマダ オガタ ビラ 五色の雲 スポット パネラー 梅園 モラハラ カラー 知っ得 クラート アノレ シュホン ゲレンデ ペンイ カーハート カウガール ドラッ ゲーテ マジョラ ナベルト トバン ロドプシ ボルマーク 広場 ミキサー ボルダ トハングリー マッシ ビクトリ トリウム マグナカル モナコ バンパ フォトレ アッペ こまいぬ オキサイド テーラ ルーム はぐろ クセル スタブ 大麦若葉 けつがん ナツツ プラット

ウィーン国立歌劇場のオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員のうち、入団を認められた者が自主運営団体たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を構成する。当然、ウィーン国立歌劇場管弦楽団員であってもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員ではない者もいる。ちなみに歌劇場のオーケストラは6管編成・150名ほどだが、ウイーン・フィルのメンバーは5管編成・120人ほどでである。大型の編成を求められる曲(マーラーなど)では国立歌劇場の団員もエキストラとして出演する場合もある。

英語表記のVienna Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってVPOと表記されることもある。正式な略称はドイツ語表記よりWPhであるが、もっと簡単にWPともする。

コンサート
定期演奏会は9月〜6月にかけて毎月一回程度・日曜日午前11時開始・1プログラム1回・年10回である。公開ゲネラルプローベ(総練習)と称してもう1回の公演も行われ、定期演奏会の前日の土曜日午後3時30分開始となっている。夜はオペラ公演を行う為、ウィーン・フィルの定期演奏会と公開ゲネラルプローベは昼間に行われる。オペラ公演、ザルツブルク音楽祭への出演やウィーン芸術週間(Wiener Festwochen)への出演は恒例であり、そのほかに随時特別演奏会も行っている。もちろんウィーン国立歌劇場のシーズン中は、一日にウィーン・フィルのコンサートとオペラの二重の仕事をこなすことがよくある。

1939年より、毎年1月1日にニューイヤーコンサートを行っている。このコンサートではヨハン・シュトラウス2世を中心としたヨハン・シュトラウス一家の曲を多く演奏している(中でも『美しく青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』はほぼ必須の選曲となっている)。

2004年からはシェーンブルン宮殿の庭園で「ヨーロッパ・コンサート」を催している。モーツァルト、チャイコフスキー、スメタナ、ラヴェル、シベリウスなどさまざまな作曲家によるポピュラーな管弦楽曲でプログラムが組まれ(その中ではヨハン・シュトラウス2世の「ウィーン気質」が必ず演奏されている)、2004年はジャズ・ヴォーカリストのボビー・マクファーリン、2005年はズービン・メータ、2006年はプラシド・ドミンゴ、2007年はヴァレリー・ゲルギエフが指揮を執った。

オーケストラのメンバー
ウィーン・フィルハーモニー協会は自主運営団体であるが、そのメンバーはウィーン・フィルの基盤となるウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員としての活動が義務付けられている。オーディションの後、まず国立歌劇場の団員として3年の試用期間を経て(その間ウィーン・フィルの演奏にも待機団員として加わる)、正式にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員として採用される。採用されるのは主にウィーン国立音楽大学出身で、しかも先輩団員から直接指導を受けている(多くの団員は演奏活動のかたわらウィーン国立音楽大学で教鞭をとっている)。採用される前から補助団員としてウィーン・フィルの演奏に参加している者が半数以上である。

ウィーン・フィルの高い演奏水準の維持は演奏者の性別や民族といった均一性によるところが大きいと言われていた。1990年代まではオーストリア(ドイツ)人または旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性にほぼ限定されており(ドイツ人でもプロイセン系は指揮者も含めて敬遠されがちだった)、こうした傾向が社会的に批判されることもしばしばだった。しかし、1997年に女性ハープ奏者アンナ・レルケスを採用したのを皮切りに、女性楽員が徐々に増加している。また近年日系人の楽員なども登場しており[要出典]、その門戸は開かれつつある。

「比類なきオーケストラ」の秘密
ウィーン・フィルは、高級感あふれる優美でデリケートな響き、歌劇の演奏で鍛えられた一分の隙もない高度なアンサンブル、個々のパートの充実した音楽性は、他のオーケストラの追随を許さない。ハンス・クナッパーツブッシュは「比類なきオーケストラ」と称えている。その素晴らしさは個々の奏者の技量というよりは、ウィーンにおいて培われてきた伝統的な奏法・独自の音色に誇りを持ち、それを創立以来固守し続けてきたことに起因するといえる。それゆえに指揮者からの要求に対して、技術的に可能であっても彼らの音楽性に適わないと判断した場合は、はっきりと拒絶することさえある。

独特の音色の秘密として、管楽器はウィンナ・ホルン、ウィンナ・オーボエ、ウィンナ・トランペット、ウィンナ・パウケンなど、ウィーン・フィル独自の古いスタイルのものが使われている(クラリネットやトロンボーンもドイツ式とは少し違うが、近年職人の減少により日本のヤマハがこれらの楽器の開発と製作に携わっている)。また弦楽器は、コンサートマスターを除いて同じオトマール・ラング工房で製作されたものが用いられている。もちろん、これらの楽器を弾きこなすためのテクニックは、ヴァイオリンであればヨーゼフ・ベームやゲオルク・ヘルメスベルガー(ウィーン・フィルの初代コンサートマスターでヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世の父)を創始者として代々の楽員に継承されているウィーン・ヴァイオリン楽派による。かのフルトヴェングラーは試みにウィーン・フィルの使っている弦楽器を当時自分が監督をしていたウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現ウィーン交響楽団)で使用してみたが、ウィーン・フィルのような豊麗な響きを作り出すことはできなかったという(フルトヴェングラーが著書「音と言葉」にこのエピソードを記している)。

楽器のみならず奏法にもウィーン・フィル独自のものが存在する。弦楽器のボウイングは弓の元から先端ぎりぎりまで使い、柔らかい音を出すため、弓を指板の近くで幾分力を入れて弾く(スル・タストの一種)、強拍であげ弓で弱拍で下げ弓の逆ボーイングもしばしば見られる。またピッチ(音程)の取り方は他のオーケストラよりも高く445Hz(国際標準音高は440Hz)で、音色の高次倍音が少なくなり純度が高まり、アーティキュレーションも音を切る際には、際立たせて切る。これはムジークフェラインザールの残響が長いため、音楽の輪郭がぼやけないように自然に音を切る傾向になったとも言われている。

指揮に対する反応も独特で、拍を振り終えてからようやく音を出し始める(ドイツ語圏のオーケストラにはしばしば見られる)傾向があり、カラヤンのような指揮者にはあうが、メンゲルベルクやショルティなどのように、指揮棒を振り下ろした時点で即座に音を出すことを要求する指揮者とは意見が衝突することもしばしばだという。

近年、アーノンクールやガーディナー、ノリントンらの客演により古楽の演奏法が理論的に浸透するに連れて、当時のピッチやボーイング、ヴィブラート、テンポ、バランスなどの点で指揮者の意見が通る例が増えてきている。無論、現代曲のグリッサンドが必要なティンパニの場合はペダルのドイツのギュンター・リンガーのものを使用するか、第2奏者が調律ねじを操作する(通常はシングルハンドル式のウィンナ・ティンパニを使用する)。

楽器配置もウィーン・フィル独自の並ばせ方があり、ムジークフェラインザールで演奏する際は、歌劇場のピットをそのまま舞台へ上げたような配置で演奏する。基本をドイツ式配置とし、打楽器は左手奥へ、コントラバスは金管の後ろ、オーケストラの一番後ろの列で横一列に並ぶのが一般的である。しかし、バーンスタインとの演奏では指揮者の意見を尊重しているらしく、弦楽器を第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの順(アメリカ式)に配置しているのが、市販されている録画で確認できる。

ウィーン・フィルが定期演奏会を行う会場は、ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)であるが、このホールのすべてが溶け合った陶酔的な響きと長い残響時間もオーケストラの美質を助長しているのは疑う余地がない。

彼らが得意とするレパートリーはモーツァルト、ベートーヴェン、リヒャルト・ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスなどいずれもウィーンとゆかりの深いドイツ系の作曲家であり、ブラームスの交響曲第2番などのようにウィーン・フィルが初演を行ったものもある。特にウィーン・フィルの指揮台に立った作曲家のうち数人は、このオーケストラの美しい音色を想像して作曲を行ったとさえ言われている。一回り歴史が浅く、戦後急速に国際色を強めたベルリン・フィルを差し置いて、ドイツ・オーストリア系音楽演奏の第一人者として遇されるゆえんである。また地理的な理由により、イタリア・オペラやフランス音楽・ハンガリー音楽など、更にロシア音楽などスラヴ系の音楽にも優れた資質を示す。

ウィーンで生まれウィーンで亡くなり、ニューイヤーコンサートを通じて看板レパートリーのように思われているヨハン・シュトラウス2世(を初めとするシュトラウス一家)とは意外にも生前には疎遠であり(機会音楽として軽視していた)、彼を高く評価していたマーラーの指揮を通じて接近、ワインガルトナーを経てクラウスがようやくレパートリーとして定着させた。なおウィーン・フィルの最初期のレコーディング(1924年の機械吹き込み)には「美しく青きドナウ」「ウィーン気質」「天体の音楽」「うわごと」などワルツの有名曲が選ばれている(指揮はヴァイオリン奏者であったヨーゼフ・クライン)。他にウィーン生まれの作曲家としてはシューベルトなども重要なレパートリーである。

近現代の音楽も決して不得手ではないが、戦後数年ぐらいまでは楽員が近現代の作品を演奏することに対してあからさまに拒絶反応を示すことがよくあったという(ゆえにレコードプロデューサーのジョン・カルショーは「1910年以降作曲された作品に関して演奏することを極端に嫌がるオーケストラ」と評している)。独自の潤いを持つサウンドが近現代音楽とはミスマッチだという意見もあるが、「春の祭典」の大マニアでレコードコレクターであった英文学者の鍵谷幸信は、それでも「(この曲を演奏する上での)欠点と呼ぶには美しすぎる」と書いている。

特に彼らの常任指揮者でもあったマーラーの交響曲に対する反発は非常に強かったが、マーラーの弟子であったワルターや、マーラーの交響曲を得意としたバーンスタインが数多く取り上げるようになってから、マーラーはウィーン・フィルの主要レパートリーの一つとなった。近年では新ウィーン楽派や、ハンガリー出身でウィーン在住だったリゲティなども、ブーレーズらと頻繁に取り上げるようになった。

2009年02月21日

文子とその周辺の人物

高橋文子(たかはし ふみこ)
大吉・節子夫婦の三女。誕生日は7月18日。国立大学を卒業し、元は夫亨と同じ会社の研究所に勤めるキャリアウーマンだった。しかし、仕事に打ち込むあまり息子の望の世話が出来ず、姑年子に叱られることが多かった。亨が会社を辞めて自然食品の店を出す時には反対したが、最後には逆に店の経営に積極的に加わり手伝うようになった。開店資金調達のためマンションを売り、年子の家に移り同居を始めたが、年子がアルツハイマー病になりその介護に苦労した。年子が亡くなった後、亨とは一度離婚をしている。その間、後の葉子の夫となる宗方(後に葉子は離婚する)への恋心が出るものの、宗方と亨が友達という事で、亨との仲を取り持ってもらい再婚。亨が自然食品の店を急に閉めてハワイでのホテル経営を始めてからは、日本に残って望と二人で暮らし始める。生き甲斐を求めて旅行代理店を開き、望の世話もそっちのけで、家事を放棄して商売にのめりこんでいる。しかし、第8シリーズで望に裏切られたという思いから酒びたりになりアルコール依存症に。
高橋亨(たかはし とおる)
文子の夫。文子とは一度離婚している。元は文子と同じ会社で営業関係の仕事をしていたが、文子のほうが社内での地位が高かった。そういう文子の仕事に対して理解ある夫だった。望の養育問題、教育問題で母年子の介入を拒否できず、母との同居を決意する。会社の待遇に対して不満を持ち、脱サラして自然食品の店を開く。事業は順調であったが突然店じまいし、ハワイでのホテル経営に乗り出した。家族揃ってのハワイ移住を希望したが、文子に反対され単身赴任状態となった。望のことで問題があると気軽に帰国し、それなりに父親としての役目を果たしている。何かにつけて文子をハワイに誘うが文子は頑として行こうとしない。現在は息子の望と一緒に暮らしている。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

葉子とその周辺の人物
大原葉子(おおはら ようこ)
大吉・節子夫婦の四女。誕生日は8月11日。ハワイに住む伯母の珠子に一番かわいがられている。一時は珠子の養女になってハワイへ永住してくれと望まれた。ハワイで大学卒業後、山口太郎と知り合い親密な交際をしていた。しかし、財産家の嫁になり家にしばられる生き方を疑問に思い、仕事仲間の竹原洋次と結婚する。そして珠子を頼って二人でハワイへ移住する。しかし、そこで洋次に捨てられ傷心の思いで日本へ帰国する。その後、太郎と再会し太郎は元の仲に戻したいと希望するが、葉子は仕事と自由な生活を選んでしまう。その後、青山久光と婚約したり、宗方直之と結婚したりするが結局うまく行かなかった。現在は若い恋人大原透と結婚し、その子供を妊娠していたが、流産してしまう。
山口太郎(やまぐち たろう)
葉子の元婚約者。ハワイ時代から葉子とつきあっていた。葉子が日本へ帰国してアパート住まいになると、そこで半同棲生活を始めた。しかし、母政子に結婚を反対され、葉子が社長夫人に納まることに疑問を持ったため破局。太郎は政子にいわれるまま、政略的結婚をする。しかし、結婚は長続きせずすぐに離婚。その後、葉子との関係が復活しそうな気配もあったが、結局は葉子を諦め、美智と結婚する。現在は、葉子の現状に責任を感じ、葉子に幸せになって欲しいという気持ちからしばしば葉子に援助の手を差し伸べたりしている。
山口政子(やまぐち まさこ)
太郎の母。息子太郎と葉子が交際をしていると知った当初は、家柄が合わないと結婚に反対した。しかし、政子が連れてきた太郎の嫁との仲がうまくいかず離婚させたため、太郎と葉子の婚約を破棄したことを後悔している。太郎と美智の結婚後、美智と顔を合わせたくないという理由で、葉子のもとに押し掛け無理矢理同居し葉子の世話を始めた。葉子に幸せになって欲しいと言って、政子のお気に入りの宗方直之との結婚を勧めた。宗方との結婚後、二人のために贅沢なマンションを準備し、自分も一緒に同居を始めた。葉子は政子の好意を有り難いと思う一方、煩わしさも感じていた。結局葉子は、宗方と離婚し、大原と同棲を始めた為政子の元を去った。(第8シリーズは出演せず)

長子とその周辺の人物
本間長子(ほんま ながこ)
大吉・節子夫婦の五女。誕生日は9月15日。末娘らしいちゃっかりした甘えん坊の性格。英語が得意。大学卒業後銀行に就職するが、意中の恋人を同僚社員に奪われ傷つく。そして子持ちの遠山昌之と結婚したが、1993年に遠山は娘を残して急死してしまう。その時の執刀医だった本間英作に関心を持たれ、1年間の交際後に結婚する。そして娘日向子を出産する。その頃から自宅で翻訳の仕事を始め、仕事三昧の生活を送る。姑の常子にはいつも嫁としてなっていないと叱られている。母節子の病死後、父大吉の一人暮らしを心配し実家に帰り同居している。日向子を本間病院の跡取りにするため教育熱を上げる常子に対して、面倒だから近所の学校で十分という考えの持ち主である。翻訳の仕事に行き詰まり翻訳家を廃業し、おかくらの店を手伝うようになる。第9シリーズでは、父・大吉が店の客・怜子と良い仲になり、彼女の良さそうな性格には裏腹に大吉を騙そうとしているのでは、と付き合いに反対していた。一方で、姑・常子と夫・英作がいっぺんに倒れた事で手伝っていた店を辞め、介護のために岡倉の家を出て行き、所帯を持つ。
本間英作(ほんま えいさく)(第2シリーズから)
長子の夫。本間病院の跡取り息子。本間病院を継ぐよりも大病院で脳外科を極めたいと常子の大阪へ戻って来いという話はいつも拒絶していた。常子の進めた病院長の娘との縁談を断りもせず、いやいやながら話に乗っていたが、長子をどうしても諦めきれず結婚式の当日に逃げ出した。ストレスがたまると、義兄の勇のところに出かけて泥酔するまで飲み明かし、周囲の人への不満を吐きまくることがしばしばある。長子の我がままを許し、長子に理解ある風を見せるが本心ではかなり不満がたまっている。大吉のもとで婿養子同然の生活を送っていることにも、自分の不甲斐なさを感じていた。勤務中に過労によって倒れ、脳外科の手術はもうできないと診断され、勤め先の病院を退社。その後は神林クリニックに籍を置き、訪問診療の仕事を始める。
神林常子(かんばやし つねこ)(第2シリーズから)
英作の母。誕生日は12月24日。本間産婦人科病院を医師である夫と助産師であった常子の二人で築き上げる。息子の英作、娘の由紀の双方が継いでくれることを望むが、どちらもその気がないことが不満だった。孫の日向子が生まれてからは孫に継がせようと教育に熱を上げていた。東京へ出てきたおりに神林と知り合い交際を始めた。娘の由紀に婿養子(春日伸彦)を迎え、本間病院を継がせるが後に伸彦を追い出し、英作に本間病院をゆだねようとする。しかし、英作・由紀と喧嘩別れして本間病院をつぶしてしまう。その後、東京で夫の神林と暮らし、老人医療のボランティアをしていたが、脳卒中で倒れる。

登場する店・会社など
お食事処「おかくら」(第1シリーズでは岡倉家ダイニング。第3シリーズで改装して開業)
大吉の経営するお食事処。第2シリーズから山口グループのビル内に開業するも、政子の事業失敗と葉子の機転で岡倉家に移店する。
北川保育園(第7シリーズから)
弥生がボランティアで勤める保育園。孫の勇気が以前通っていた。
中華「幸楽」(第1シリーズから。第2シリーズで改築)
五月の嫁ぎ先の中華料理店。2階は小島家の居住スペース。3階以上はマンションとなっており田口家が3階に部屋を借りている。
FTトラベル(第5シリーズから)
文子の経営する南米専門の旅行代理店。(Fumiko Takahashi) からきている。高橋家の実家が事務所代わりとなっており、金田利子が手伝いに来ている。
和菓子「菊屋」(第7シリーズから)
加津の母・みのりが奉公する和菓子店で姑のサワが営んでいる。本店は夫の康史が経営している。
洗濯代行「らくらく」(第9シリーズから)
久子が経営する店で、健治が働いている。以前は邦子や加津が働いていた。幸楽とビルの1階にある。

過去の店・会社など
小料理屋「おたふく」(第1シリーズ〜第2シリーズまで)
会社員時代の大吉がこの店に通ったことがきっかけで退職、修業を積んだ。
フランス料理「ラ・メール」(第2シリーズ〜第3シリーズまで)
弥生が勤めたことのある飲食店。
ごはんや(第8シリーズ冒頭まで)
弥生の夫・良たちが共同経営するご飯の製造・宅配サービス。第8シリーズで野田家の人間は全て退職している。
バー「くるみ」(第6シリーズ)
勇が通い詰めたバー。女将・里美と不倫関係になったと思われたが、実は美人局だった。後に女将は改心し勇や五月に謝罪し、郷土に帰る。
自然食品店「あさま」(第2シリーズ〜第4シリーズまで)
亨が始めた自然食品店。
本間病院(第8シリーズまで)
常子が院長を務めていた病院。経営不振により倒産。

あらすじ
お食事処「おかくら」を経営する岡倉大吉には5人の娘がいる。上から順に、3月生まれの弥生、5月生まれの五月、7月生まれの文子、8月生まれの葉子、9月生まれの長子。弥生は夫や子供達に手を焼き、五月は姑や小姑からのいびりに悩まされ、文子は病気の姑の面倒を見た後離婚・復縁、葉子は仕事優先でなかなか男性と落ち着かず、末娘の長子は口うるさい姑にも好き放題言い返す奔放な性格。この5人が次から次へと悩みを抱えては大吉の元に相談に来る。妻の節子を亡くして以来、1人で娘達の世話に追われている大吉であるが、ぶつぶつ文句を言いながらも実は娘達が大好きでなかなか子離れができない面もある。また逆に娘達も父親が大好きでお互い忙しい時間を割いて岡倉家に集まっては一緒に食事をしたりするほどの仲。そしてそれぞれ不満を抱えながらも、自分の家族も大切にしているのである。

第1シリーズ
岡倉夫婦 (シリーズテーマ「サラリーマンの退職後」)
大吉は親会社を定年退職後、子会社の重役になる。しかしその境遇に不満を持ち、人に使われない生活を夢見ている。しかし、妻の節子には大吉の不満は理解できず、このままサラリーマン生活を続けていくことを願っている。五月の遺産相続問題で退職金が必要になり、大吉は会社を辞める。そして、通い慣れた小さな居酒屋の板前になる。節子は大吉の夢が理解できずなおさら不満が募る。
野田家 (シリーズテーマ「専業主婦の自立、老人介護」)
弥生は長年専業主婦をつとめていたが、夫の良は仕事人間であり、二人の子供は自立しつつあり、家で孤独を味わっている。ふとしたことで結婚前にやっていた看護師の仕事に戻ることを決心する。しかし、良も子供たちも仕事に就くという弥生の気持ちが理解できず、日々の暮らしが変わることに文句を言う。半年後、姑のハナが倒れ半身麻痺になる。弥生は看護師を辞めてハナを野田家に引き取り自分で介護をすることに決める。
小島家 (シリーズテーマ「遺産相続」)
五月の舅・幸吉が急に亡くなる。遺言状がないため、嫁いだ妹たちは財産を等分することを主張する。しかし、土地の評価価格は高いものの貯金もないために、実際に分けるには店を売るしか方法がない。姑のキミは夫と築いた店を残すことにこだわる。しかし、妹たちは納得せず次々と問題を持ち込んでくる。
高橋家 (シリーズテーマ「共働き夫婦の子育てと親との関係」)
文子はキャリアウーマンとして同じ会社に勤務する夫の亨以上の仕事をしていた。そのため子育ての時間がとれない。それを姑の年子はいつも厳しく批判した。しかし、問題が続出し離婚問題にまで発展する。
葉子 (シリーズテーマ「結婚の条件」)
葉子はハワイで暮らしている間に裕福な家の御曹司である太郎と交際していた。しかし、婚家に縛られる生活を嫌い、結婚後も職業を持ち続けたいと考える葉子は太郎との結婚に疑問を持つ。日本に帰り働き始めた葉子はそこで竹原洋次と知り合う。財産もない三男坊の洋次だったが、仕事上の夢を共有できる洋次は太郎以上の相手に見えてくる。葉子は洋次と結婚することを選択し、ハワイへ移住する。
長子 (シリーズテーマ「就職と結婚」)
長子は大学卒業を控えている。大吉節子夫婦は葉子か長子が岡倉家に残ってくれると信じているが、長子には全くその気はない。卒業間際交通事故に遭い、その加害者遠山昌之と知り合う。昌之には死別した妻との間に子供がいた。しかし、長子は次第に昌之に惹かれていき、結婚を決意する。大吉夫婦は子連れの昌之との結婚に大反対する。

第2シリーズ
岡倉夫婦 (シリーズテーマ「おかくら開店」)
大吉は調理師試験を受けて、将来は自分の店を出したいと考えている。しかし妻の節子は事業の失敗を心配して賛成しない。試験に不合格になったことを内心喜ぶ。大吉の勤める「おたふく」が借金のため閉店し、大吉は職を失う。しかし、調理師試験に合格後、山口政子の援助を受けて小料理屋「おかくら」を開店する。最初は絶対に協力しないと言った節子だが、開店するとかいがいしく女将として振る舞うようになる。
野田家 (シリーズテーマ「夫の単身赴任」)
弥生の夫、良が突然いわきへ転勤になる。身体の不自由な姑をかかえ、子供たちの学校の問題もあるため、弥生は良に単身赴任を要求する。今まで専業主婦の弥生に全てを頼っていた良は不安を隠せない。弥生はこれをきっかけに夫との新しい関係を築けるのではないかと期待する。また娘のあかりは、弥生のような平凡な主婦になるのは嫌、女優になりたいと言い、家を出て行く。
小島家 (シリーズテーマ「姑との同居、小姑との同居」)
幸楽の店舗が古い木造から鉄筋のビルに変わる。2階は3世代2世帯が住める広い住居になる。五月は姑キミと完全同居し、小姑の久子家族とも同居することになる。幸楽の前に邦子が化粧品店を開く。キミは何かと久子や久子の子供たちを可愛がる。そして愛や眞には孫は平等であるべきだと辛くあたる。五月は子供たちの将来を守るため、キミに逆らうようになる。
高橋家 (シリーズテーマ「夫の脱サラ、親との同居」)
夫の亨が会社の処遇に不満を持ち、脱サラを図る。そのためにマンションを売り、母親の年子と同居すると言い出す。年子は親は親の生活を、子供は子供の生活をと理解を示した風であるが、実際に生活してみると様々な問題が発生する。亨の自然食品販売の事業は成功し、文子もそれに関心を持ち始める。
葉子 (シリーズテーマ「仕事か結婚か」)
ハワイで暮らしていた葉子は洋次に捨てられ、失意のうちに帰国し岡倉家へ戻る。葉子との結婚を諦め一度は結婚した山口太郎も、やはり離婚していた。政子は二人を別れさせたことを後悔し、葉子を太郎の嫁にと望む。太郎も葉子が結婚後も仕事をすることに理解を示すが、葉子は結婚よりも仕事に打ち込む生活を選ぶ。
長子 (シリーズテーマ「バツイチの結婚」)
長子の夫遠山昌之が、連れ子の遊を残して突然死ぬ。昌之の兄から遺産相続放棄をさせられ、遠山家を追い出されてしまう。病院に就職した長子はそこで本間英作と出会う。英作は長子に惹かれるが、母の常子は強引に病院長の娘との縁談を進める。長子は昌之の兄の家で虐待されていた遊を手元に引き取る。英作は結婚式の当日、式場から逃げ出して長子に結婚を申し込む。遊は長崎県雲仙の裕福な叔母に引き取られる。

第3シリーズ
岡倉夫婦
山口政子の事業が失敗し、おかくらは閉店せざるをえなくなる。新店舗購入の資金もなく、大吉は商売を諦める。葉子が自宅を改装して住宅地にある落ち着いた店としておかくらを再開することを提案する。改装の期間、大吉節子夫婦は暮らす場所を求めて娘たちの家を順番に訪れる。台所とリビングと和室を店舗用に改装し、新しいおかくらが開店する。
野田家
女子大を卒業したあかりは、単身赴任中の良の看病のため訪れたいわきで、梨農家の息子和夫と知り合う。弥生の反対にもかまわず、あかりは和夫と結婚する。いわきの工場が閉鎖されるのに伴い、良は東京へ戻ってくるが、仕事を持つ弥生とのすれ違いが目立つようになる。会社の再建のため、良は重役へと昇進する。一方武志は、大学進学を嫌い、好きな仕事をしたいと自動車修理工になるため家を出て行く。
小島家
五月は、相変わらず姑のキミと、離婚して出戻ってきた邦子の機嫌を伺いながら生活している。邦子は子供には父親が必要だと考え、妻のある立石一茂と不倫関係に陥る。立石との再婚を目指した邦子だったが、立石は癌にかかり、結局は死亡する。
高橋家
亨の母年子がアルツハイマーになる。文子は献身的に介護をするが、年子の状態は一向によくならない。
葉子
葉子はこれからは照明デザイナーよりも一級建築士の時代であると言い、資格取得に懸命になる。山口商事の業績悪化に伴い、山口太郎との婚約が破棄となる。
本間家
長子は英作と結婚し、大阪の本間病院で暮らすが常子とうまくいかず離婚覚悟で東京に戻ってくる。英作との二人だけの生活が始まるが、なにかにつけ常子が現れて本間家の嫁の立場を説く。

2009年02月05日

サムライスピリッツ

『サムライスピリッツ』(SAMURAI SPIRITS、侍魂、サムスピとも略される事もある)は、1993年にSNKが制作した江戸時代の天明〜寛政期(『サムライスピリッツ新章 〜剣客異聞録 甦りし蒼紅の刃〜』のみ文化期)を舞台とした対戦型格闘ゲームシリーズである。素手を中心とした従来の格闘ゲームと異なり、武器(主として刀)を用いて戦う点が注目された。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

特筆すべきは「強斬り」の攻撃力の高さで通常時でも単発で3割ほどの体力を奪っていくほどである。さらにダメージを蓄積されると「怒り状態」となり攻撃力はさらに上昇する。但し一発が重過ぎるためか『ストリートファイターシリーズ』のような一気に体力ゲージの半分以上を奪うような連続技はほとんど無い。よってこのゲームでは強斬りを受けずにこちらの攻撃を当てていくかという駆け引きが要求される、まさに一撃がとても重いゲーム性になっている。また、真剣勝負による「負け=死」という演出(決着後、遺体を黒子が運ぶなど)でのシビアさが緊張感を作り出している。近年は必ずしも「負け=死」ではなく、『天下一剣客伝』などは勝負後に会話のやり取りがあるなど、マイルドな表現になっていることもある。

この優れたゲーム性と魅力的なキャラクター、特異な世界観が人気を呼んだ(ただ、毎作品ごとに時代設定が異なっているため、シリーズ内の歴史の見方が少々ややこしくなっている)。SNK黄金時代を築くのに一役買ったゲームともいえ、続編も数多く作られた。日本国外では『SAMURAI SHODOWN』という名前で親しまれている。

1994年9月には、『サムライスピリッツ 〜破天降魔の章〜』というタイトルでフジテレビ系によりテレビスペシャルアニメとして放送された。

その他、外伝としてナコルルを主人公として描いた『サムライスピリッツ2』のアニメ版『SAMURAI SPIRITS 2 アスラ斬魔伝』や、ナコルルがヒロインのアドベンチャーゲーム『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜』とそれをOVA化した『ナコルル 〜あのひとからのおくりもの〜 郷里之畏友編』(前後編予定であったが前編のみしか出ていない)がある。

シリーズ作一覧
SAMURAI SPIRITS(1993年)
『サムライスピリッツシリーズ』の1作目。通称は『初代』など。スーパーファミコン(SFC)、メガドライブ(MD)、ゲームギア(GG)、FM TOWNS、3DO、プレイステーション(PS)にも移植された(PS版は『剣客指南パック』のタイトルで『真サムライスピリッツ』とのカップリング)。

主人公は「覇王丸」(そのライバルキャラクターが「橘右京」)。ボスキャラクターは「天草四郎時貞」。

この作品と続編の『真』では『ストリートファイター』シリーズ風の擬似6ボタンであった(ネオジオはハード上4ボタンしかないのでAとBボタン同時押しで強斬り、CとDボタン同時押しで強蹴り)。

オリジナルでは負けた側は血飛沫を舞わせたり胴体が切断されたりと、明確に「死ぬ」こととなる。

本作のゲームボーイ(GB)版である『熱闘サムライスピリッツ』(タカラが発売)では、本来プレイヤーキャラクターではない「黒子」と「飛脚」も参戦する。飛脚が参戦したのは後にも先にもこの作品のみ。黒子は次作にて正式に参戦するが、GB版での必殺技は次作とは異なるオリジナルのもの。

カプコンが『X-MEN』を発売するまでは必殺技キャンセルがかかる通常技が最も多い格闘ゲームだった。キャンセル必殺技は対戦戦略の基本であり、キャンセル必殺技好き?にも人気を博した。ただし次回作以降はこのキャンセル可能通常技が大幅に減少し、続作に継承した『X-MENシリーズ』とは対照的な発展を遂げた。

真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変(1994年)
略称は『真』など。初代『サムライスピリッツ』発売後、成功を受けてかなり早い段階で続編の制作が発表されており、タイトルも『真SAMURAI SPIRITS 覇王丸地獄変』と決まっていることはファンの間で広く知れ渡っていた。

武器破壊技など数々の新システムを追加し、人気を博す。

主人公は前作に引き続き「覇王丸」。ボスキャラクターは「羅将神ミヅキ」。また、新キャラクター「牙神幻十郎」の登場により、右京は「(覇王丸の)ライバルキャラクター」の座から降格。このゲームでナンバー1のヒロインである「ナコルル」の悲劇的なエピローグも話題を呼んだ。

また、初代から背景にて判定を行っていた黒子が隠しキャラクターとして参戦。登場デモ、必殺技、挑発などアクションが他キャラクター(『サムライスピリッツ』以外の作品も含む)のパロディとなっている。性能の高さと隙のなさ、さらに黒子自身の体の小ささ(技が当たらない)が相まって、全般的にCPU戦難度が高いことで話題になったこの作品では、最終ボスを上回る強敵となってしまった。

また千葉麗子とのタイアップもあった(チャムチャムの声優役で参加。またマネージャーもチャムチャムの相棒、パクパク役で参加している)。

胴体切断は控えめな演出である。またCPU戦ではこの演出がなくなっている(黒子による死体搬送はあり)。このため、欧米人ユーザーからの評価は高い。

サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣(1995年)
略称は『斬』など。「蹴り攻撃の弱中強を廃止」や「武器破壊技は武器飛ばし技に変更する」など前2作とはシステムを一新し、「修羅、羅刹」というモード選択システムが導入される。また、この作品では『龍虎の拳』や初期の『ザ・キング・オブ・ファイターズ』の様に怒りゲージを自力で溜める事が出来た。

ほぼ全ての攻撃を防げる空中ガード、投げも回避できる攻撃避け、永久コンボ・非道な連携ともに多数ある。一見バランスが悪そうだが、ほとんどのキャラが強力過ぎるため、逆にバランスが取れている。

前作での「ナコルル」の悲劇的エピローグが影響した為か、ストーリーは「初代より後、『真』の前の話」ということになっている。そのため、ナコルルも登場している。

主人公は「緋雨閑丸」だが、プレイヤーセレクトでの1P側の初期カーソルは「覇王丸」に合わせられている(2P側の初期カーソルは閑丸に合わせられている)。ボスキャラクターは「壬無月斬紅郎」。

本作にも「黒子」が参戦するが、前作とは違いプレイヤーキャラクターに変化する「同キャラクター対戦」となっている。なお、本作では黒子の審判がないため、出演はこの時のみ。あとはナレーション担当。

ボスキャラクター壬無月斬紅郎戦では、普通に倒した後に斬紅郎が起き上がって最終戦が始まり、これに勝って初めてゲームクリアとなる。この最終戦は「体力が斬紅郎を上回っていても、タイムアップを迎えるとゲームオーバー」という設定となっていた。

登場キャラクターのうち「ナコルル」と「リムルル」のみ胴体切断が起こらない。

韓国版では「花諷院骸羅」が韓国人の「キム・ウンチェ」(金雄載)という設定に変更されている。これは韓国で発売する際の条件として「キャラクターに韓国人を含める事」を要求されたためであるらしい。尚、プレイステーション2(PS2)版『サムライスピリッツ 天下一剣客伝』では隠しキャラクターとして登場する。

タカラが発売したGB版の『熱闘サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣』では、次作で復帰する「柳生十兵衛」も隠しキャラクターとして登場する。やはり技のラインナップは次作でのそれとは異なっている。またGB版では容量の都合上、「千両狂死郎」と「花諷院骸羅」が削除されている。

漫画『るろうに剣心』の作者である和月伸宏(後に『サムライスピリッツ零』でメインキャラクターのデザインに関わる)が、この作品について『るろうに剣心』の単行本8巻にて語っている。

2009年01月21日

中世料理(ちゅうせいりょうり)

中世料理(ちゅうせいりょうり)をここでは、およそ5世紀から16世紀の中世ヨーロッパの多様な文化における食品・食習慣・調理法とする。この時期に食生活と調理法はヨーロッパ各地で変化し、近代ヨーロッパ料理の基礎をなした。

主食はパンのほかポリッジやパスタなど穀物の加工食品であった。肉は格式が高く穀物や野菜より高価だった。一般的な調味料は柑橘果汁・ワイン・酢であり、そのほか購買力のあるものには蜂蜜や砂糖が普及しており、いろいろな料理に甘酸っぱい味付けがされた。よく使われる肉は豚と鶏であり、牧畜に投資が必要な牛肉は一般的ではなかった。タラやニシンは北方民族の間ではごく一般的に食されていたが、その他各種の海水魚や淡水魚も食卓に上った。アーモンドは粒のまま料理の添え物として食され、あるいは粉状に挽いてスープ・シチュー・ソースを濃厚にする材料として使用された。アーモンドミルクは四旬節や断食のさいには動物性の乳の代わりによく利用された。

当時の輸送手段は速度が遅く、保存技術も未発達だったため、長距離の交易が可能な食品は少なかった。わずかな富裕層や貴族だけが輸入品のスパイスなどを購入することができ、貧困層の料理と比較するとその料理は異国の香りが漂うものであった。社会の各階級はそれぞれの上位の階級を模倣したため、国際貿易や戦争による革新が徐々に中世都市の中産層に浸透した。

飢饉が頻発し社会階級がきわめて厳格であった当時の料理は、今日の先進国とは違い社会的地位を表す重要なマーカーの一つだった。スパイスのような贅沢品を購う財力があっても、階級によっては特定の食品の消費が違法とされた。貴族ではない新興の富裕層には浪費を制限する奢侈禁止法が発令された。労働者階級の料理を洗練させない社会的規制も働いたが、その理由は労働と食事の間には神性やしかるべき必然性が介在すると信じられていたためであり、その結果職人階級は安価な粗食に甘んじていた。

一般には日中のディナーと晩のやや軽いサパーという一日二食であった。モラリストは宵越しの断食明けに食事をあまり早く摂ることをよしとせず、教会関係者や上流階級はこれを避けた。だが、現実的事情からほとんどの労働者・子供・女性・高齢者・病人はブレイクファストを摂った。教会は習慣的暴飲暴食ほか肉体のもつ弱点を克服するよう教えを広めていたため、人はこのブレイクファストにまつわる実行力の弱さをうしろめたく思いがちであった。多量の酒類を伴う贅沢な晩餐や深夜のレレサパー(オック語:reire-sopar「遅い夕餉」)は非道徳的とみなされた。酒はことに賭博・暴言・泥酔・淫行など不道徳と関連づけられた。軽食とスナックは(教会はこれを嫌ったが)一般的であり、労働者が間食物を買うために雇用主から手当をもらうのはごく普通だった[1]。

エチケット
中世は社会の隅々まで浸透していた厳格な集団主義から離脱しようとする潮流が徐々に勢いを増した時期である。中世の食事は生活の他のあらゆる局面同様に共同体の行事であった。家族は召使ともども食卓を囲むのが理想であった。私事を楽しむためにこっそり抜け出すことは、人が互いに依存しあう世界においては高慢で不適切なうぬぼれとみなされた。13世紀英国のロバート・グロセテステ司教はリンカーン伯爵夫人にこう助言したという。「伯爵と奥方の名誉を台無しにしないためにも広間を抜け出し個室でこっそりディナーやサパーを摂るような真似は慎みなさい。」また召使が施しに満足せず食べ残しをこっそりもちだしレレサパーを楽しむことの無いよう監視すべきとも助言した。特別な機会の食卓のエチケットに触れた記述は複数残っているが、エリート層の日常の食事の詳細や一般大衆・貧困層のテーブルマナーはあまり知られていない。とはいえコース料理・ふんだんなスパイス・香水入りの手水などは想像しがたい[1]。

富裕層にとり話は別である。食前やコースの合間にはフィンガーボウルとタオルが供され、手を洗うゲストには清潔さが強調された。淑やかで繊細かつ純潔であれというステレオタイプが社会的規制として働き、女性が消尽的祝祭を楽しむには障害となったため、祝祭のさい宴席の主人の妻は従者とともに別室で食事をすることが多かった。主人の妻は満腹になってから宴席に戻ればよかった。おしなべて豪勢な食卓は男性に独占され、妻や侍女を同伴するのはゲストのなかでももっとも格上のものに限られた。下位の階級のものが上位の階級を助け、若年者が年長者を手伝い、女性が服を汚したり女性らしくない流儀で食事を摂ったという悪評を得ずに済むよう男性が骨惜しみしないなどといったエチケットにより、社会の階級性は強化された。回し飲みは豪華な宴席でもよくみられ主賓席に座るものにとっても例外ではなかったが、同席のものにパンを分け与え肉を切り分ける標準的エチケットと同種のものであったとみてよい。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

料理は皿かシチューポットで食卓に供され、各自は自分の取り分をスプーンを使うか素手のままで皿から取り、古くなったパン・木皿・ピューターなどに載せる。下層階級の家庭では食卓に直において食べるのも普通であった。食卓ではナイフが使われたが、各自が持参するものと目されており、特別に歓待されるゲストのみ専用のナイフが与えられた。ゲストの階級が特別に高いか主人と昵懇の間柄である場合を除き、ナイフは一本が二人以上で共用された。食事用のフォークは近代初期以前のヨーロッパではあまり使用されておらず、当初はイタリアだけで使用されていた。とはいえ、そのイタリアでもあらゆる社会階級でフォークが普及するのは14世紀のことである。この変化の契機を11世紀末、ビザンチン帝国のセオドラ・ドゥカイナ王女のテーブルマナーへの対応にみることができよう。王女はヴェネツィア総督ドメニコ・セルヴォの許嫁であったが、実直な性格のヴェネツィア人はこの件で動揺していた。宦官の従者が王女の料理を切り分けその一切れ一切れを金のフォークで口に運ぶという異邦人の流儀を目の前にして、同席したものたちはショックを受け動転したが、オスティア司教は後に王女の洗練されたマナーを傲慢だとして、王女を「ヴェネツィア総督の妻自身の身体とて、あのように潔癖に扱うなら腐っているも同然だろう」と評している

2009年01月14日

文庫未収録の短編など

ザ・スニーカーにほぼ毎号に掲載されており、掲載号で完結する短編の場合と長編の冒頭章のみを文庫本発売より先行して掲載する場合がある(「吸血鬼V.S.魔法使い!」「妖都の魔法使い」等)。文庫本収録時には加筆修正が行われる事がある。 また、DVD第VI巻限定版には特典として書き下ろしの短編小説が同梱された。 以下は現時点で文庫本へ収録されていないエピソード。

魔法使いの祝祭(DVD第VI巻限定版 特典)
「明日一日、私と過ごすこと」 「社長とあたしやって年末はずっと!」 ソロモンの姫とケルトの魔女が衝突したクリスマスイヴの夜。 いつの頃からか見慣れた<アストラル>のいつもの光景。 しかし話は収まらず、猫屋敷は解決案として「合同儀礼」を提示する。 これは<ゲーティア>と<アストラル>が並び立つ、クリスマスの1日の物語。
レンタルマギカ 超スペシャル版 「魔法使いがいっぱい!」(2008年8月号掲載)
いつき達キャラクター達が自ら「小説」と「アニメ」について語るスペシャルな短編。物語本編でも外伝でもない、「あっち」と「こっち」のお話。短編ではあるがザ・スニーカー2008年8月号では話は完結してなく、続きはDVD第XII巻限定版へ特典として同梱される予定。

小説・ドラマCD・漫画・アニメの差異について
登場人物の設定や物語の背景、基本的な骨格は全メディア作品を通じておおむね共通である。しかし、登場人物同士の出会い方を含むエピソードや細かな設定に若干の違いがあり、キャラクターのデザインが異なる場合もある。例えば、アディリシアが料理が苦手であったりリボンを結ぶことが出来ないという設定は原作小説には現時点では出てきていないが、漫画「レンタルマギカ from SOLOMON」や webラジ『voice theater「レンタルマギカ」魔法使いのススメ』、「レンタルマギカ」Special Gift「愛のアルバム〜for♂」で触れられている。 また、「魔法使いと花泥棒」に登場した李青鳳は原作小説では背の高い青年と描写されているが、漫画「レンタルマギカ」では幼さが残る少年の風貌で描かれており、ソロモン七十二の魔神も原作小説におけるデザインとアニメ・漫画におけるデザインは大きく異なる。

なお、異なるメディア作品の中で描かれるエピソードの中には互いに繋がりを持つものもあり、時に原作小説で描かれるよりも先に別メディア作品へ登場するエピソードもある(繋がりの幾つかは文庫「レンタルマギカ 魔法使いの記憶」巻末のあとがきで言及されている)[16][17]。

ドラマCD
発売済みの作品はいずれもオリジナルのエピソードで構成されている。但し、「レンタルマギカ 魔法使いの宴」と「レンタルマギカ 魔法使いのススメ」の2作品の脚本は三田誠・魔術考証の三輪清宗・スニーカー文庫編集部担当者の難波江宏隆という原作者を含む原作関係者3名が担当している。「THE 縁起物?聴くと幸せになれる(かも)CD」は福本岳史・上野新・難波江宏隆が、Special Gift「愛のアルバム〜for♂」「愛のアルバム〜for♀」のドラマパートでは露木洸が脚本を担当している。
漫画化作品
「レンタルマギカ」は原作小説を下地にした内容だが詳細は若干変更されており、エピソードの掲載順序も原作小説の発表順と異なる[18]。また、オリジナルのショートエピソードも存在する。
「レンタルマギカ from SOLOMON」はアディリシアの視点によるオリジナルのエピソードで構成されている。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

アニメ
放送されるエピソードは原作小説を下地にした物の他にオリジナルのエピソードもある。 また、放送される各話の順序は原作小説の発表・刊行順とは異なり、物語の中における時系列の順序とも異なる「シャッフル状態」である。この手法は同じスニーカーの「涼宮ハルヒシリーズ」でも使われている[19]。 時系列順序はKADOKAWA内公式サイトのアニメ・ストーリーのコーナやモバイルサイト内で明らかにされている。但し、その時節設定は原作小説と異なる部分がある。例えば功刀翔子の事件は、アニメ(第1話)では初夏に位置づけられているが原作小説では冬の事件である。また、錬金術師の事件はアニメ(第7,9,10話)では秋だが原作小説では初夏の事件である。