« ヴォロガセス4世 | メイン | バター(英語:butter)とは乳を原料とした »

将軍職を嫡男家光に譲る

元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。

家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。

関ヶ原の戦いが初陣であった。この時の秀忠隊は信濃の外様大名と、上杉・中山道に対処する部隊としての慣例により隣接地に封地を持つ譜代大名で構成していた[2]。しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は康政・忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるという事はできなかった。
家康は秀忠が間に合わないと察するや、本多忠勝と井伊直政になお秀忠を待つか、開戦すべきかを協議した。忠勝は前者を主張し、直政は後者を主張した。家康は直政の意見を容れたため、この時点で秀忠は関ヶ原への遅参が確定した。
秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている[誰が?]。
健康 SEM促進 離婚 インポ ブログ 抜け毛 自動車 語学 古着 生涯学習 公園 ネイル 国内 しわ取り SEO対策 探偵 マンション バイク リラク 家電 介護 アクセサリー 音楽 近畿東海 教材 旅行 やせる エージェント 育毛 分譲 レストラン 介護 賃貸 暮らし リラク バイク 介護 リサイクル 学校 キャンプ場 海外 スポット ネイル 税理士 介護 起業 ローン 介護 メンタル

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参」(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)。
これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている[誰が?]。ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。
大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が勤めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王口で先陣を勤めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.benibana86.com/blog/mt-tb.cgi/1963

About

2009年05月29日 10:02に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「ヴォロガセス4世」です。

次の投稿は「バター(英語:butter)とは乳を原料とした」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35